まごころツアー 番外編
Magokoro Tour Extra

「SLあそBOY」筑豊路を走る!

 

感想文
Description of Impressions

担当: 藤井 孔明

参加者 : 和田政彦先生、松尾裕子先生、藤井、城、岸原


筑豊にSL復活! 中間駅附近にて、以下写真はすべて和田先生撮影
   
 「ハチロク」、言わずと知れた旧国鉄8620形蒸気機関車の愛称である。旧国鉄C形蒸機(SL)史上最多の687両が製造され、戦前・戦後の国鉄輸送の中心的役割をした車両だが、時代の流れには逆らえず、現在は58654号機のみが日本で唯一阿蘇の地で活躍しているにとどまっている。「ハチロク」自体は中間以北でしか活躍していなかったものの、かつてSLの名撮影地として、またSLの晩年の活躍地として知られた筑豊(その中でも直方、田川が有名)に蒸機が1日だけ「里帰り」を果たすことになり、SLファンの和田先生達と僕達でその勇姿をカメラに納めることになったのだ。そこで、撮影に出かける前に58654号機の事について少し調べてみることにした。
   
「ハチロク」は「キュウロク(9600形)」と並ぶ大正時代の名機。
写真は昭和48年(1973)、遠賀川駅にて
  
 「旧国鉄8620形58654号機」、大正11年、日本で435番目の「ハチロク」として誕生し、1976年に国鉄湯前線(JR湯前線、現くま川鉄道湯前線)において最後の運用を終えた。その後、肥薩線矢岳駅に併設のSL展示館にD51170号機(現在もここに展示されている)と共に運ばれ、ここに安住の地を得たものとその当時誰もが思った。しかし、1989年、58654号機はJR九州小倉工場から再び自力で走り出し、「SLあそBOY」として見事に営業線のレールの上に舞い戻ってきたのである。その後は日本最古の動くSLとして人気を博し、JR九州の看板列車として豊肥本線だけでなく肥薩線や鹿児島本線にも進出し、JR設立10周年の時には門司港駅での展示のため、鹿児島本線を自力回送して出張するなど精力的な活動で知られるまでになった。しかし、SLのメッカであった筑豊地区には入線したことがなかった。それが今回実現することになったのだから、人々が騒ぐのもうなずける。

 閑話休題。当日、最初の撮影地は後藤寺線船尾駅付近になった。船尾駅は、国鉄末期まで石灰石輸送の積出駅として栄えており、現在も麻生セメントが作業所を構えている事で知られている。自分の予想ではさびれた鉱山地区のイメージしかなかったのだが、実際はけっこう活気があったので驚いてしまった。ここでは、僕たちは線路添いの道路から、松尾先生は作業所のタンクの点検台から、和田先生は山の頂上から(下写真)撮影する事になった。
  

和田先生は撮影ポイントを今でも正確に憶えていて、当時を懐かしむかのように山を登っていった。
後藤寺線船尾−筑前庄内(烏尾峠)にて
   
 その次に遠賀川鉄橋に廻ったのだが、逆光になっていて撮影しづらいと言うことで、仕方なくここでの撮影はあきらめた。ここで撮影ポイントを探していた和田先生が、線路脇のバラストに足をとられて、ころびそうになってしまったので、僕たちはひやひやした。

 次に、直方駅付近の陸橋で撮影することにした。ここで各自弁当を食べて、他の撮影者の人たちと話しながら写真撮影をした。ここでは全員でほぼ同じ方向から撮影したのだが、僕の写真と和田先生の写真ではえらい違いが出てしまった。
   

横を走るのは旧国鉄伊田線(現平成筑豊鉄道伊田線)
  
 最後に撮影地として選んだのが、中間−直方間の線路沿いである。ここでは、写真を撮ろうとしてカメラを構えたら、また突然電池が切れてしまって僕のカメラが使えなくなってしまった。そこでもう1つのカメラを使ったのだが、写りが悪くてここに載せられる代物ではないので、和田先生の作品のみここに掲載する。
   

筑前垣生駅付近の、ほぼ同じ地点にて撮影。(右は昭和47年、牽引機はD51807)

   
 今回の撮影を総括して、和田先生は自称鉄チャンと言うだけあって、その知識と行動力のすごさは見習うべきだということと、カメラは常に整備しておくべきだということを思った。次にこの様な機会があったら、そのときは是非良い写真が撮れるようにもっと勉強しておこうと思う。また、この日大塚先生と北方先輩の別働隊が筑前垣生駅北側の遠賀川橋梁他で「ハチロク」を待ち構えていたことを付け加えておく。
inserted by FC2 system